※ 毎朝、5分以内で読める書籍の紹介記事を公開します。
※そのままの文章ではありませんが、試し読みする感覚でお楽しみください。
目次
はじめに
自分探しの旅に出たのは21歳のときです。若いぼくには外国を知りたい、外国語を話し、見知らぬ人々の中に入り込んで、彼らの一員になりたいという飽くなき欲求がありました。
最初にソビエト連邦に行って現地の人と話をしたとき、ぼくはあらゆる人との出会いに歓喜します。彼らが話すロシア語の一語一語を聞くことすべてが冒険でした。それから、ポーランド、フランス、ノルウェー、日本で同じことを感じたのです。
書籍情報
ぼくがアメリカ人をやめたワケ
第1刷 2020年11月30日
訳者 大沢章子
発行者 田中知二
発行 (株)集英社インターナショナル
発売 (株)集英社
印刷 大日本印刷(株)
製本 加藤製本(株)
ISBN
総ページ数
ロジャー・パルバース
作家、翻訳家、演出家、映画監督。東京工業大学名誉教授。
集英社インターナショナル
世界を知らない人生
UnsplashのJamie Daviesが撮影した写真
人生のほとんどを生まれた国で暮らし、外国語を話すこともなく、見ず知らずの他人ばかりの世界で運試しをしようともしない人生とは、どんなものでしょう。
当時のオーストラリア首相だったウィリアム・マクマホンがラジオで、「我が国にアジア人を大勢受け入れるのは禁物だ、アジア人は多産だから気がつけばオーストラリア人の顔が白くなっている」と話すのを聞いたことがあります。
ホテルのレストランで夕食を食べていた時に、50代くらいの上品な紳士が「アメリカ人だね」と話しかけてきました。アメリカ人であり、日本から来たばかりだと伝えたのです。
「日本だって?連中はまだ共食いし合っているのか?」
南太平洋で起きた日本兵士同士の食人高位のことを言っています。戦後、オーストラリア国内には、日本と日本人に対する偏見が広まっていました。1980年代の日本のカルチャーブームの影響がオーストラリアに広まる前はこんな感じだったのです。
日本兵が仲間の亡骸を丸まる食べていたという記憶が、ステーキを食べている私を見て食欲を減退させていました。
「近頃は、時に丸々と太ったぽっちゃりの白人が好まれるそうです」そういって微笑んでみたのです。
外国への偏見もそうですが、オーストラリアの人々は、ぼくが滞在した他のどの国の人々よりも、自国の過去の文化について無知であることに驚きました。
新人類とバブル崩壊
1980年代になると、戦争も戦後の困窮も知らない若者世代の在り方に、社会が大きく変わったことが見て取れるようになりました。
多くの若者が自由に買い物できるだけのお金を所有するようになり、それまで大勢を占めていた、倹約と真面目さを尊ぶ日本人の嗜好が、軽薄短小へと変わっていったのです。
関心があるものはファッションと音楽、車といったものになりました。
それから、バブル崩壊を経験し、地下鉄サリン事件などもあり、当時の日本は落ち目になっているようにも見えていたのです。
この先、日本の若い世代は、ソーシャルメディアを使った集客ツールとは別の、独自の社会モデルを考案する必要があります。何かがなければ社会をつきり上げることはできなのですから。
ドイツ人学校での日々
Image by David Mark from Pixabay
既にピアニストとして有名だったレオ・シロタは、数々の音楽家を生みだした教員でもありました。ベアテは東京ドイツ学園に入学し、その後アメリカン・スクールに転向して中等教育の最後の2年間を過ごしたのです。
彼女のメールには「問題ありません」と国外のドイツ人居留地にもナチス党員の教師を派遣してくるまでは書かれていました。
「様々なことを強いられ、ヒトラー青少年団とドイツ女子同盟が学内に作られ、ユダヤ系である私は参加を認められていません。私は徐々に、差別がどういうものなのか理解し始めました」
この便りが届き、レオ・シロタは日本での輝かしい経歴を中断させます。そして、1人娘のベアテをカリフォルニア州オークランドのミルズ・カレッジに留学させました。
レオ・シロタは日本人の学生たちから慕われていました。ホームビデオには、日本文化に同化し、同時に日本文化に多大な貢献した家族の姿が映っています。
戦争が終わると、ニューヨークで『タイム』誌のリサーチャーとして働いていたベアテは、できるだけ早く日本に帰って、軽井沢で軟禁生活を送っていた両親に会いたいと思っていました。日本語を流暢に話せる人間は当時のアメリカでは希少だったため、ベアテは米軍の民間人要因として職を得ます。
感想
サイト管理人
中国と日本で生産するのに同じコストと品質で作られるようになりました。特にアパレル関係でそうです。円安で日本の工場を取り合うような動きがあります。現場見てないデータ人間は、こう言うことを言います。
実際にモノづくりの工場現場などに行くと、人手が足りなくて派遣を使って号機ライン(機械)を動かしているという現状があります。派遣はベトナム人、中国人、ネパール人、と多国籍にわたっているようです。ネパール人であれば真面目で高品質なものが期待できると思います。ですが、中国人であれば日本にいながら中国とおなじ品質ということになるのです。
冷凍倉庫の仕事、物流の仕分け作業、キャラクターのグッツの生産現場など、ちゃんと適正のあるエンジニアが機械を動かしているわけでは、もはやありません。「完全国内生産」はもう、安心を呼べる材料ではないのです。
中国で生産しても、それなりの商品ができるようになっているわけですから、中国で作っても日本で作っても同じコストで同じ質のものができるのです。
中国の工場と日本の工場で作ったものをわざわざ持ってきて、「ホラ、変わらないでしょう」みたいなことを言ってきた人がいたので、こんなに作れないものかと実際の現場まで足を運んでみると、全然違う景色が見れました。
現場レベルで、派遣中心で生産したものの品質と、元々いた日本人の従業員で生産したものの品質は、同じものとは思えませんでした。口だけではなくて、やっぱり自分の目で見るべきものもあると思います。著者が経験した戦後なら尚更でしょう。
ロシア、中国、オーストラリア、ベトナム、日本と、アメリカから飛び出して固定概念なしで各国の人と接触を試みた人の著書です。50年以上を国外で過ごした記録ともとれます。この本を読めば凝り固まっている思考に気付けるかもしれません。
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