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目次
書籍情報
日本史を支えてきた和紙の話
発刊 2023年10月3日
ISBN 978-4-7942-2679-2
総ページ数 271p
朽見行雄
ジャーナリスト。和紙文化研究会員。NHKを退職し、イタリアで文化や伝統工芸職人について取材。2010年、和紙文化研究会員。
草思社
- はじめに
- 第一章 日本人と「紙」との出会い
- 中国から来た紙と、日本の紙の起源
- 卑弥呼は紙に接した最初の日本人
- 魏からの詔書に邪馬台国は紙で返書を出したか
- 日本はいつから紙を使い始めたか
- 中国での簡牘発掘と、日本の紙の起源
- 古代日本で紙を作ったのは誰か
- 手工芸の先進技術者だった渡来人
- 仏教の不況を劇的に推し進めた紙
- 渡来人たちの戸籍簿作りと紙
- 中国から来た紙と、日本の紙の起源
- 第二章 正倉院文書に見る古代の和紙作り
- 日本最古の紙、正倉院文書
- 正倉院文書の身の上
- 生まれも育ちも日本の紙
- 正倉院文書に見る古代の紙漉き技法
- 紙漉き技術が早期に日本に伝わった幸い
- 古墳時代の日本に伝えられた三つの紙漉き技法
- 日本の「揺り漉き」技法の特異性
- 「堅く厚き紙」が作った国、日本
- 堅牢な紙こそ国家の土台
- すべて手作業にこだわった日本
- 和紙は「日本的なもの」を伝える遺伝子
- 黒子としていきてきた和紙
- 日本最古の紙、正倉院文書
- 第三章 和紙の力で鎮護国家
- 聖武天皇の「和紙の長城」への想い
- 是が非でも残したい天平の宝物
- 東大寺大仏の開眼会と大紙巻筆
- 聖武天皇が発案した「紙の長城」
- 国宝「大聖武」は書の王、紙の王
- 聖武天皇一家による鎮護国家の建設
- 写経生と紙巻筆
- 正倉院文書の三つの意義
- 写経に費やされた膨大なエネルギー
- 写経生必携の紙巻筆のすごさ
- 和紙の量と質を向上させた写経事業
- 写経用の和紙のとてつもない量
- 正倉院文書に記されたきゃ興事業の内幕
- 写経要旨はどこで生産されたか
- 写経用紙の質の向上法
- 天平の騒乱と百万塔陀羅尼の紙片
- 短かった「あおにしよし」の平和
- 仲麻呂の祟りに「和紙」で応戦
- 千年経っても失われない和紙の威力
- 和紙と日本人の心
- 「草木国土悉皆成仏」という思想
- わしは有情のもの
- 聖武天皇の「和紙の長城」への想い
- 第四章 和紙と紙巻筆が生んだ源氏物語
- 紫式部と「紙の国」
- 紫式部、「平仮名と和紙」と出会う
- 越前国と源氏物語
- 式部、乳に従い紙の国・越前へ
- 越前国府の紙生産システム
- 越前の紙生産体制
- 式部の越前での暮らしと結婚
- 源氏物語に書かれた「本当の歴史」
- 正史の「建前」に気づいていた式部
- 源氏物語の中で描かれた時代
- 平仮名と和紙と紙巻筆
- 平仮名の疑惑
- 平仮名を書くには、和紙と紙巻筆
- 華麗な平安文学を成立させた和紙
- 枕草子の中の和紙
- 紫式部と和紙の里
- 和紙の魅力が生み出した源氏物語
- 表舞台に上がった和紙
- 競い合う紙たち
- 紙の色へのこだわり
- 陸奥紙をめぐる紫式部と清少納言
- 紙屋川は日本文化の源流
- 紫式部と「紙の国」
- 第五章 平家一門を西方浄土に導いた装飾料紙
- 装飾料紙の究極、「平家納経」
- 清盛の願文「来世の妙果よろしき期すべし」
- 装飾料紙で西方浄土を目指す
- 装飾料紙の美世界
- 装飾料紙は日本独自の紙芸術
- 「漉き掛け」技法が作る大自然
- 現代によみがえる装飾料紙
- 平家納経の模本作り
- 模本作りへの道
- 模本を作った不世出の芸術家
- 鳥の子紙の再現
- 「美の美」とされた納経の写経文字
- 平家納経の模本の完成
- 善を尽くし、尽くした平家納経
- 「平家納経一具」の献納
- 西方浄土を描いた経絵
- 装飾料紙の究極、「平家納経」
- 第六章 雪舟の水墨画と日本人の心
- 雪舟と紙の本質
- 日本人の精神に影響を与えた侘び、寂び
- 中国からやってきた水墨画
- 雪舟作「四季山水図」の原本・複製の同時展示
- 雪舟が使った紙
- 紙は絵師の分身
- 水墨画における紙
- 雪舟の歩み
- 水墨画の誕生とその技法
- 日本人は水墨画の余白に心を巡らせた
- 南宋画の余白
- 「余白」という日本文化
- 雪舟画における日本の自然、日本人の心
- 和紙の「滲み」
- ドラッカーが愛した日本の水墨画
- 社会によって異なる余白の意味
- ドラッカー、英国の画廊で日本の水墨画に出会う
- ドラッカーの日本の水墨画コレクションの始まり
- 日本がにおける日本人の空間認識
- 雪舟と紙の本質
- 第七章 和紙の蝶番が拓いた屛風芸術
- 琳派の屛風と和紙
- 日本美術史に燦然と輝く琳派
- 琳派は屛風を愛し、屛風は和紙を愛した桃山百双の世界
- 屛風の作り出す美の世界
- 屛風は表と裏で一つの芸術
- 画が変化する屛風という構造
- 屛風を下支えする和紙たち
- 屛風の内部と和紙
- 日本の屛風の最大の要、「紙蝶番」
- 紙蝶番の誕生までの長い歴史
- 正倉院宝物「鳥毛立女屛風」に紙蝶番はなかった
- 平安時代の屛風絵・屛風歌
- 絵巻物の画中に見る屛風
- 鎌倉後期、ついに紙蝶番が出現
- 日本の芸術はパレルゴンで成り立っている
- 日本美術の工芸性
- 西洋社会にある「パレルゴン」という考え方
- 屛風も和紙も重要なパレルゴン
- 琳派の屛風と和紙
- 第八章 和紙が支えた徳川の天下泰平
- 江戸時代は和紙の時代
- 戦乱の終わりと和紙の躍進
- 文書数の増大と社会の発展
- 紙専売制で生き残った岩国藩
- 周防岩国藩をどん底から救った和紙
- 特Aクラスだった岩国半紙への苦情
- 石高会社の常識を覆した岩国半紙
- 江戸時代の経済と和紙
- 紙漉き農民は金の卵
- 日本一の二次産品だった和紙
- 幕府権威の象徴だった越前奉書
- 岩国半紙のその後
- 江戸時代は和紙の時代
- 第九章 浮世絵は和紙の本懐
- 世界を虜にした浮世絵
- 浮世絵は「軽簿小」の芸術
- 小さな和紙に広がる大きな芸術
- 浮世絵を生んだ三つの条件
- 世界で熱愛された浮世絵
- 鈴木春信の登場と多色摺りの技法
- 多色木版画の創始者、鈴木春信
- 町絵師だった春信
- 浮世絵と和紙は一心同体
- 木版多色摺りの始まりは大小絵暦
- 絵暦絵師、春信
- 木版多色摺りの技法
- 浮世絵における絵師、彫師、摺師、和紙
- 下絵から、彫り、摺りへ
- 画工(絵師)は人気稼業
- 彫工(彫師)の仕事
- 摺工(摺師)の仕事
- 彫工、摺工たちの多大な貢献
- 浮世絵に多様な美をもたらした和紙
- 和紙は浮世絵の美そのもの
- 春信の錦絵の五つの特徴と和紙
- 浮世絵を産み育てた江戸の世
- 浮世絵の値段、和紙の値段
- 江戸時代の庶民は浮世絵のパトロン
- 浮世絵を生んだ「逝きし世」の日本
- 世界を虜にした浮世絵
- 第十章 和紙の里・越前の文明開化
- 黒子たちの故郷、越前
- 千五百年、和紙を作り続けてきた越前五箇
- 敦賀湾に流れ着いた渡来人
- 越前で和紙作りが栄えた背景
- 越前にあった良質な軟水と原料植物
- 仏教信仰のための紙漉き
- 越前を収める豪族が天皇になる
- 越前と中央の地理関係
- 「江戸の賑わい」だった越前五箇
- 明治維新と和紙の危機
- 洋紙の登場
- 越前和紙を用いた太政官札の発行
- 新紙幣発行に寄与した越前の七人
- 「和紙化する洋紙」の脅威
- 新時代を拓いた越前和紙
- 越前五箇の近代化
- 越前和紙の生きる道を開いた二軒の岩野家
- 越前和紙、世界へ躍り出る
- 黒子たちの故郷、越前
- 第十一章 現代人の心を包む和紙~日本画家・千住博の雲肌麻紙~
- 日本画家・千住博と和紙
- ビエンナーレで喝采を浴びた日本画家、千住博
- 千住博の鮮烈な米国デビュー
- 紙も絵の具もすべて自然素材
- 自然の摂理のまま描く
- 絵具を「流して」滝を描く
- 雲肌麻紙と日本がの真髄
- 羽田空港で人々を包み込み千住作品
- 大徳寺聚光院の千住作品
- 明治画壇の巨匠と千住博の志向性
- 千住作品とパレルゴン
- 千住少年と岩絵の具
- 進化し続ける千住博の和紙使い
- 高野山金剛峯寺の襖絵に挑む
- 千住博の滝は「視覚化された真言」
- 千住が挑んだ二つの襖絵
- 茶の間の「断崖図」制作
- 囲炉裏の間の「瀧図」制作
- 高野山金剛峯寺襖絵の完成
- 和紙と日本人の心
- 千住作品の先見性
- デジタル時代の和紙の役割
- 日本画家・千住博と和紙
- エピローグ
- おわりに
- 主な参考文献・資料
はじめに
日本古来の製法による紙を、「和紙」といいます。楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)などの植物の繊維を原料とし、手漉きによって作ります。
和紙は書写材にとどまらず、日本画や浮世絵などの画材から、障子、襖、衝立、屏風、行灯、扇子、うちわ、傘、懐紙、ちり紙などの日用品に使われているのです。これほどの用途の広さは、中国や西洋にも存在しません。
日本のあらゆる伝統文化の中で、和紙ほど、常に日本人のそばにあり続けてきたものはないでしょう。日本の歴史、日本人の心は、和紙なしでは語り得ないのです。
日本はいつから紙を使い始めたか
文字が書ける紙は間違いなく文明の尺度を示すものです。詔書の色まで決めていた中国に比べると、紙を持っていない日本はかなりの後進国でした。
五世紀の日本に、ようやく紙を使う国家が誕生していたと考えられる史料があります。『日本書紀』の巻十二「履中天皇」の頃には、遅くとも五世紀初頭の日本社会で髪を使っていたかもしれないとの語句が見られるのです。
当時のヤマト王権の国力から考えると、大陸からの紙の大量輸入などは考えられません。すると、日本はすでに自前で紙を作っていたのか、それとも木片にでも書いて中央に報告していたのでしょうか。
紙が発明される頃の中国では実用的な書写材は、簡牘(かんとく:竹簡と木簡)でした。何事も中国に倣っていた日本であり、紙がなかったとすれば、言事の記録に簡牘を使っていたと考えられます。
現に1963年に奈良時代の首都・平城京跡から発掘された木簡には、様々な文字が記されていました。履中天皇のころの木簡が発掘されていないだけではないでしょうか。
写経用紙はどこで生産されたか
天平19年(747)に東大寺写経所で調達したと思われる写経用紙数は3万1000枚余りでした。
お役所に文書はつきものであり、紙は国家経営にとって必需品でした。奈良には公営の紙漉き場である紙屋院があり、中央行政府用の紙を漉いています。紙屋院の年間生産量は2万枚で、中央での1年分の受容の2割弱でした。必要分の多くを全国各地の生産で賄っていたのです。
越前国、出雲国、筑紫国など紙産地の国府は全国で40を超え、国府の下には郡家と呼ばれる組織があり、各郡家では2名が造紙の仕事をしました。紙作りのために国全体では数千人が働いていたことになり、紙の生産は武器生産とともに国家の一大事業だったことがわかっています。
文書数の増大と社会の発展
江戸時代の紙の消費量について、現代のような統計資料などは期待できません。しかし、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館では、保存文書数についての極めて珍しい統計表を展示していたことがあります。年代の判明した文書を年ごとに集計して棒グラフにした図です。
江戸中期ごろに保存文書数が、一挙に増えています。社会の発展と紙とが密接に関係していたことがわかるのです。
水や火に弱いため使い回すことが当たり前だった紙ですが、金銭の出納、土地の権利など生活の根幹にかかわる紙文書は事情の許す限り保存されていたと考えられます。
洋紙の登場
奈良時代の仏教による文明開化では、和紙は写経用紙や紙巻筆などの形で役割を果たしました。
鎌倉室町時代の文明開化でも、水墨画などにおいて和紙が使われています。
明治維新の文明開化では、紙のすべき仕事が急増しました。本や雑誌、新聞、教科書など、和紙が活躍する場所が多かったが、明治の中期になると均一の紙を大量生産できる洋紙が受け持つことになります。
洋紙は材木を粉砕したパルプを使い、手漉きでなく機械で抄くなど、和紙とはまるで違う工業製品でした。
神は高速の機会印刷に対応しなければならず、和紙は機会に通すと手羽立って使えなかったのです。
日本の大基幹産業だった和紙生産は、新しい西洋式の文明開化の矢面に立たされ、存亡の危機に晒されました。