※読んだ本の一部を紹介します。
※そのままの文章ではありませんが、試し読みする感覚でお楽しみください。
はじめに
「無心」ということが、仏教思想の中心で、また、東洋精神文化の枢軸をなしているものなのです。
目次
書籍情報
タイトル
無心ということ
著者
鈴木大拙
円覚寺にて参禅し、大拙の道号を受けます。
日本のみならず海外の大学でも教壇に立ち、仏教や禅思想を発信しました。66年、没。
出版
角川文庫
無我と無責任
宗教は有り難屋、アーメン屋などのものだと考えるかもしれませんが、そのようなのは、必ずしも宗教や宗教家でないかもしれません。
自分をなくしてしまって、絶対の地、他力に自分の身を任せる、自分のはからいを容れないという風に、無心の意味を解するところに宗教があると思うのです。
私の言う無心論は、第三番目のものであってほしいと思います。
第三番目の意味になると、自分を棄てることができるのです。道徳的な意味を働かせず、哲学的な意味を持たず、ただの自分ということになります。
個人我というものを指定しないと、責任なるものの帰着するところがなくなるのです。ある意味で無責任だととられる場合があります。しかし、本当の意味でいう宗教から見ると、実際無責任というところがあるです。
仏教などの宗教は、無政府主義的で、倫理を否定しまうと、よく言われます。倫理的な方面からみると、そういう風にみられる傾向がないのでもないのです。
禅の特色
インド流だときらびやかなものに見えます。法華今日でも華厳経でも、色んな仏様の姿が、地面から湧いて出たり、天から降ってきたり、それらの仏や菩薩はおのおの光を放っています。
支那にまいりますと、孔子の人格もあり、日常的、人間的、現実的な雰囲気になるのです。
つまり、日々の行動の上に、支那仏教の禅の特性があります。支那仏教の禅は、宗教的に布教して広がりをみせることはありません。
主に日本では鎌倉時代から武家を中心に、禅が広まっていきました。徳川の時代には各剣客のいろいろな禅の話がでています。日本の武人には宗教的なところを持ったところが多くあったのです。禅はそれゆえ、いろいろな方面に行きわたっていきました。
無心と生活の矛盾
個人、国債、人間、自然、どの点から見ても、矛盾が発生して来ないものはありません。
食べ物ひとつとっても、人間においては矛盾が発生します。美味い、不味い、栄養、動物の殺生、植物の栽培、好き嫌い、そんな点で矛盾を感じるのです。
経済でも、消費と生産、人口動態、内戦、問題がすこぶる複雑になり、問題が生じます。
お金を出して、提供してもらった料理に対して、評価を付ける権利とか、功徳とかが、どうしてわれわれはもっているのでしょう。ただ、こうして生きていることすら、何だかもったいないような気がしてなりません。
また、人間の矛盾といった場所に、精神生活の進みゆく道があるように思われます。
体験の世界
無心というと、こころがないということになるので、変だと思う人もいるでしょう。分別の世界、自覚二元の世界のみにいる人の話になります。水の流れを眺めて、深いだろうか、冷たいだろうかと、想像することは、宗教の世界では妄想とと言うのです。
分別や科学の世界では、想像することもよいでしょう。いろいろな機会をつくったり、実験したりして、体験の世界のほかに概念の世界をつくりあげます。我々の生活を便利にしていることは言うまでもありません。便利になるにつれて、体験そのものの世界を忘れるのは、われらの常です。
体験を普通に神秘的直観や直覚ということがあります。これらの文字は、人を過たまりやすいのです。2つのものを建立し、合致したとか、何とか言う、それらの合致が世界の見性であるように大概の場合は説かれているでしょう。
しかし、実際の体験からみると、いわゆる性なるものと見なるものとは初めから1なのです。
感想
サイト管理人
無心=脳死、という概念から外れて考えると、歴史からさかのぼり宗教的、現代社会的に考えて本質とやらを語られています。
人間の矛盾といった場所に、精神生活の進みゆく道があると、感情と上手く付き合っていく他ありません。
終末期の人を介護していて、ハッとなって記憶が前後したり、歩くことすら忘れてしまっても挨拶をしたりすることがありました。生きているうちは無心になれることはないのかなと思います。
日常生活や宗教的な意味合いの「無心」とはどういうことなのでしょう。物理的な側面以外で考えてみてはいかがでしょうか。