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目次
書籍情報
電鉄は聖地をめざす
都市と鉄道の日本近代史
発刊 2019年6月1日
ISBN 978-4-06-515712-1
総ページ数 240p
鈴木勇一郎
歴史学博士。専攻は日本近代史、近代都市史。
川崎市民ミュージアム学芸員。
KODANSHA
シリーズ:講談社選書メチエ
- 序章 「電鉄」はいかにして生まれたか
- 第一章 凄腕住職たちの群像_新勝寺と成田の鉄道
- 参詣鉄道の登場
- 成田鉄道と新勝寺
- 明治の三住職
- 鉄道が変えた成田参詣
- 第二章 寺門興隆と名所開発_川崎大師平間寺と京浜鉄道
- 江戸の近郊参詣空間と川崎大師
- 鉄道開発と名所開発
- 大師電気鉄道の誕生
- 京浜電気鉄道と大師公園
- 第三章 「桁外れの奇漢」がつくった東京_穴守稲荷神社と京浜電鉄
- 穴守稲荷の誕生
- 実業家・木村荘平のプロデュース
- 京浜電鉄と門前町
- 空港と鳥居
- 第四章 金儲けは電車に限る_池上本門寺と池上電気鉄道
- 五島慶太と目黒蒲田電鉄
- 明治維新と本門寺
- お会式と「連れ込み旅館」
- 久保田日亀の改革
- 池上競馬場をめぐる思惑
- 〝虚業家〟高柳淳乃助と池上電鉄
- 「田園都市」化する池上
- 「赤線」誕生の危機と本門寺
- 第五章 葬式電車出発進行
- 京都市区改正と寺院境内墓地の行方
- 幻の葬式電車_宝城事業と京成電車
- 本当に走った葬式電車_尾張電気軌道と江口理三郎
- 田園都市と葬式電車_北大阪電鉄と青木庄蔵
- 終章 日本近代大都市と電鉄のゆくえ
はじめに
田園都市、郊外住宅地にターミナルデパート、遊園地といった20席の日本の大都市の要素は、基本的に「電鉄」が作り出してきました。
実は、世界的にみれば、こうした都市の成り立ちはかなり特異です。
住宅地を開発するために電鉄が作られたわけではないですが、社寺参詣を目的として作られた駅は多く、人が集まる駅では近代都市形成がなされてきました。
近代化の物語の裏に隠された都市形成の歴史を明らかにしようというものです。
成田鉄道と新勝寺
新勝寺が寺院側として最初に社寺参詣+鉄道という構造に目をつけたのは、積極的なビジネスで成り上がった寺という背景があります。
東京近郊で明治神宮に次ぐ規模の参詣者を集めるなど、名の通った寺院です。
しかしながら、古くから栄えてきた寺院ではなく、中背までの様子を伝える資料はほとんど残されていません。江戸時代以前の成田山は、ほとんどなの死られていない「一農村の檀那寺」つまり、地元の村の小さな寺に過ぎなかったのです。
それが、発展を遂げるために、経営ツールとして使ったのが開帳です。秘仏などを一般に拝観させることで資金調達をしようと考えました。さらに、名前も聞いたことのない寺には参拝おとずれる顧客がいません。そこで賭けにでたのが、住民への宣伝です。テレビや新聞もなかった時代に、縁起の内容を歌舞伎の演目や書物で配布してまわりました。出開帳は大成功をおさめ、短期間で莫大な利益を生んだのです。
名所開発
1872年(明治5年)に新橋―横浜間に鉄道が開業しました。地域の動向に関心が払われて開かれたわけではありませんが、鉄道が敷かれると、沿線の地域にも大きな影響を及ぼしていったのです。停車場が設置された川崎はされが顕著でした。
川崎大使にとっても、参詣地として大きく発展するチャンスとなりました。隣接する田畑を購入して、境内にあった墓地を移動すると、平間寺の敷地を拡大したのです。そして「大師公園」の開発して、池を中心に庭園を楽しめるように整備しました。今の大師公園は、戦後川崎市が手を加えて野球場、プール、遊具などを設置しています。
参詣行楽地へと変貌を遂げて、参詣者を増やしていきました。
連れ込み旅館
鉄道開通によって、より多くの人々が訪れるようになっていた本門寺とその周辺では、参詣地として整備が進みました。参道に数千本の桜が植樹され、日本橋の問屋筋が参詣の際の定宿として玉泉館丹波屋でもあらたに梅林を造成するなどしています。
呼び物として登場するのが、鉱泉旅館です。本門寺の境内から湧き出る鉱泉を利用して開業したのが、光明館でした。1886年(明治19年)から3年で和式、洋式、客室、浴室を増設するなどの発展を続けていました。各地で市民が本物の温泉を利用できる施設が拓かれていったわけです。
「明ぼの楼」は温泉兼料理屋でしたが、毎年10月に行われるお会式などで「風俗紊乱」の取り締まったという繫盛話が新聞紙で報じられることでも有名だったようです。神社仏閣の門前には遊女の勧誘などの機能があることは多く、自然なことだなどの論議があります。その起源や論議については、筆者の手にあまりますが、性愛の空間としての役割も強くもつようになっていったのです。
20世紀型大都市を超えて
1930年代に行われた交通調整で、都市交通物構成を目指すという、性格をつくりあげていきました。
東京では、東京急行、東部、西部、京成の4社が誕生し、電鉄に対して政府の介入が強まっていったのです。
20世紀型大都市が誕生した時代には、都内の衛生環境は劣悪で、ペストやコレラ、肺結核といった伝染病が奥の都市住民の命を奪っていきました。その後も高度成長期にかけて公害が大きな問題となり続けたことも考えあわせなければなりません。こうした時代には均質空間を志向したことは、それなりに意味がありました。
21世紀になり、都市が直面する課題が変わってきました。従来の大都市の在り方では、対応できないことが露わになってきているのです。一見して立派な街並みを維持していますが、買い物が困難になった世代が気軽にでかけられないにも関わらず、時代にあった商店を作らせなかったり、工場や倉庫を設けないといった風潮があります。
参詣者を集めて資金を蓄え、公園や道路、見世物小屋、競馬場、住宅地といったものに投資し、さらに人が吸い寄せられて、郊外に都市ができていった歴史があります。日本の大都市郊外の在り方も、昔のように多義的であってもいいはずです。
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