書籍「知覧いのちの物語」

※ニートが興味をもった部分を紹介します。

はじめに

 第二次世界大戦の末期、明日死にゆく特攻隊の思いをくみとり、彼らを暖かく包み、そして見送った「日本のマザー・テレサ」とよばれた女性がいたことをご存じでしょうか。

書籍情報

タイトル

知覧いのちの物語

著者

鳥濱明久

鳥濱トメの長女美阿子の二男。旧富屋食堂跡地に設立した資料館「ホタル館富屋食堂」館長。

 トメの味をそのままに受け継いだメニューで昭和63年に創業した「知覧茶屋」の店主でもあります。
 トメから直接聞いてきた当時の話を語り部として伝えています。

出版

きずな出版

特攻隊員が歌う

 明日出撃するという夜に

 「ぼくは朝鮮人なのです。だからおばさん、遺書は書きません」

 トメに向かって、こういったのです。

 「最後に故郷の歌を歌わせてください。日本は負けます。しかしいまは、この国を守るために征くしかないのです。死んで皆さんを守ります」

 そういって、暗い食堂の中で故郷の「アリラン」を歌ったのです。

トメの生い立ち

 知覧という九州・鹿児島県内の小さな町の、全国から集まってきた十代の少年たちの食事を管理する食堂がありました。鳥濱トメはその食堂のおかみでした。

 トメが生まれて二年後には日露戦争が起こりました。当時の日本にはまだ国力がありません。そして、どの家も稼ぎ手が海軍に行かれたので、悲惨な暮らしに陥ったのです。
 子どもが奉公に出されるのが当たり前の時代でした。

 トメは小学校も満足にいけていないで、字が書けませでした。捨てられている雑誌に書かれている文字を覚えて、書く練習をしたのです。
 トメのこの頃の手紙はホタル館に展示してありますが、上手な字だと思います。

 トメは義勇と出会い、結婚の許しが出ないまま、知覧に新居を構えました。義勇は実家の長男だったため、一家の面倒を見なければなりません。
 そのため、夫と汽車に乗り枕崎までいって、魚のさつま揚げを仕入れて知覧まで歩いて行商をしてまわる生活を繰り返していました。

 これらの経験が富屋食堂で行かされるのです。

 20歳のトメの生活だったいいます。尊敬せざるを得ないほどの、すばらしい女性でした。

 そして、27歳のときにそれまでの貯えを元手に、知覧の商店街の片隅に「富屋食堂」を開いたのです。

軍の指定食堂となる

 町で小さな食堂を経営していましたが、40歳になろうかという年齢で富屋食堂は軍の指定食堂となります。狭い食堂が占領されてしまいました。

 軍の指定は命令です。断る権利はありません。

 軍から支給される食糧は兵士たちが食べる分を計算されており、その兵士が食べるお米が給料だったのです。毎日、白いご飯を見ていながら、食べられなかったそうです。

 指定食堂になったことで、少年飛行兵たちがやってくるようになりました。まだ十代の少年たちはもう訓練を受けたあと、つかの間の休息をとるために、富屋にやってくるようになりました。

 少年たちは、憩いの場として富屋を活用していたのです。彼らはまだ母親に甘える年齢です。トメの親切さ、気っぷのよさ、面倒見のよさに、甘えることができたのだと思います。

 トメの呼び名は「小母さん」から「おかあさん」になり、どの少年もトメにとって「わが子」でした。

 飛行学校を卒業して知覧に帰ってくることがあれば、楽しい思い出を残したままでいてくれたら、どんなに幸せだったでしょう。

トメから遺族への手紙

 トメの真骨頂は、出陣の模様をくわしく知らせる手紙を両親へ出したことです。

 中島豊蔵軍曹は、愛知県出身の19歳でした。少年飛行兵第12期生で、2019年10月に内地から台湾に戻る途中、10日ほど知覧に滞在中に毎日富屋に入り浸りだった人物です。

中島様のお父上様に一筆お知らせします

五月二十五日に豊蔵さんはおいでになりましたが
飛行機がわるいため、今日まで知覧においでに成りました。
私は食堂をしてい居りますものですから
かねてより豊蔵さんは知って居りましたので
たいへんよろこんで
中島は幸福であった
内の母より行届いているとか
そんな優しい言葉かけられて居ましたよ
私も又子供の如くお世話してあげたかったので
この世の中で品をききましたところが
玉子の吸物にシイタケを入れて
たべたいとの事で思ふままにしてやりました
六月三日午前四十分リリクでしたから
午後一時にテキの船に命中してりっぱな死をとげられました。
よろこんで下さい。
自分は小母さんのそばより出撃が出来てうれしいと
よろこんで立たれました。
元気でニッコリ笑って征かれましたら
六月三日を忘れずにいて下さい
玉子の吸物をシイタケとそなえてくれと
母に小母さんより手紙を出してくれとの事です
私は自分の子供が中島さんと思って
こちらでもめい福をいのってあげます
一筆お知らせます
よろこんで下さい
又くわしい便あとで差し上げます

第4章「特攻の母」ー隊員とその遺族とのつながり より抜粋

 この手紙は巻紙に書かれています。細長い和紙でできている、毛筆で書くための昔の様式です。

 文章は上手とはいえません。ともかく真心を込めて遺族の方に、自分が知っている限りのことを書き送っていたのです。

毎日、語り継ぐ

 50を越したら「おはあさん」の時代です。2人目の孫も生まれました。痛む足をさすりながら、それでも食堂に立っていたのです。

 ここに泊まりに来る客の多くは、かつての特攻隊員の遺族や親族、知りあいでした。トメから当時の思い出を聞くのも目的の1つでしたので、トメの存在は重要です。

 食堂のおかみの仕事は、私(著者)の母に任せ、祖母トメの全ての体験談を聞かせたのです。丁度私がその話を「もっと聞かせて」と、祖母にせがむ年代だったことも幸いしています。

記念館として富屋食堂を残す

※イメージです

 知覧に残る孫は、私1人になりました。そんなとき、平成13年の10月、知覧の町役場から富屋食堂の入口に面する通りを拡張する計画が持ち上がったのです。

 たしかにこれまでの道は、車がすれ違うにしても狭すぎました。町の発展のためにも非常にいいことですが、食堂はトメの思い出がこもっており取り壊してしまうわけにもいきません。

 幸い、解体するときに、旧食堂の資材を保存しておいたことで、ほとんど旧屋のまま再建できます。

 資料館をつくって、毎月いくらずつか親族で費用を出し合っていけば、続けられるという計算です。

 続けられなくなるということは、特攻隊や貴重な手紙の資料を失うということになります。トメは、厳しい戦時下の検閲があったにも関わらず、大切に保管してくれていたのです。

 おかげさまで、この「知覧ホタル館」には、年間何万人という方々が訪れています。

おわりに

 私(著者)は、これからも語り継いでいきます。平和な時代があるのは、過酷な時代に行き、死んでいった若者たちがいたからです。

 現代を生きている人たちが、少しでも前を向いて生きられる、すばらしい国に導いていくことが、亡くなった方々への最大の慰霊だと思います。

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