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目次
書籍情報
MOCT(モスト)
「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人
発刊 2023年11月29日
ISBN 978-4-08-781747-8
総ページ数 262p
青島顕
毎日新聞社、東京社会部記者。
集英社
- プロローグ
- モスクワ放送を支えた人々
- 第1章 「つまらない放送」への挑戦
- 第2章 30年の夢探しの旅
- 第3章 偽名と亡命と
- 第4章 「日本人」のままで
- 第5章 迷いの中を
- 第6章 望郷と、ねがいと
- 第7章 伝説の学校「M」
- 第8章 その後の2人
- 番外 ラジオが孤独から救ってくれた
- エピローグ
- 主要参考文献
- モスクワ放送日本語放送の歴史
- 「1983年4月の番組表」
プロローグ
1991年、ソ連は崩壊してロシアになりました。放送局はロシア国営の「ロシアの声」、さらには通信社との合併を経て2014年にインターネット放送の「ラジオ・スプートニク」に姿を変えます。2017年、それも休止となり、日本海を越えて届けられてきた人の声は途絶えました。
体制が違う国に行けば、自分らしく生きられると、そんな夢を持った日本人がいることを知りました。実際はそこで生きていくことは容易なことではありません。そこで、その人たちの記録を放送することは、きっと意味があるはずだと思うようになったのです。
人の声であるラジオを通じて、理解に苦しむことの多い隣国の一面を日本に伝えた人たちの物語をお届けしたい。
30年の夢探しの旅
モスクワ放送に日本から新しい職員がやってきました。日向寺康雄さん(65)。
ペレストロイカ、ソ連崩壊、急激な資本主義導入による新生ロシアの混迷、プーチン大統領による権威主義の復活と西側との対立。日向寺さんはアナウンサーとして、30年にわたってロシアの現代史を日本に伝えることになります。
初めての社会人生活がモスクワで始まりました。ゴルバチョフによるペレストロイカのただ中にあったのです。「明るい前向きなエネルギーが街中にあふれていました」と日向寺さんは振り返ります。
チェルノブイリ原発事故後に国際社会から批判され、言論の制限は徐々に取り払われつつありました。アナウンサーになったあと、ソ連のロック音楽をラジオで紹介するようになります。世の中が好転していくことを信じていたのです。
1991年8月19日朝、モスクワ中心部の大通りに近いアパートの前を戦車が次々と通り過ぎていきます。ソ連テレビ局などは、クーデターを起こした共産党保守派の国家非常事態委員会に制圧され、「ゴルバチョフ大統領が退いたこと」しか伝えません。小メディアのラジオがロシア共和国最高会議庁舎にたてこもった改革派の動静やクーデター側軍部隊の動きなどを市民伝えましたが、当局の許される範囲で伝えられるモスクワ放送の限界だったのでしょう。
夏のクーデター未遂事件を境に、ソ連は崩壊への道を進みます。ゴルバチョフが権力を失いエリツィンが主導権を握るようになりました。バルト3国が独立を宣言し、ロシアなど有力な共和国が独立国家共同体を結成したのです。ソ連という国が間もなく何かに変容していくのは明らかでした。
われわれの半生
翌2005年の年末に、もう一度モスクワを訪ねました。川越さんに面会をお願いしたが、断れてしまいました。それからほどなくして亡くなったのです。
亡くなる直前の2005年に雑誌「社会主義」に連載した「ソ連の対日マスメディアで活躍した日本人」では、自分とその周りにいた仲間たちの人生を、ひょうひょうとしたタッチで描いています。
総勢15人を超える人たちが、約半世紀にわたって日本向け『ロシアの声』放送に携わってきた。朝から晩まで共産主義の宣伝にうつつを抜かしていたわけではない。5年毎に開かれる党大会の基調報告とか政治局員の発言とかの放送をのぞけば、放送内容な主として国内ニュース、時事解説、音楽とその解説、ロシア民謡、それに聴取者の手紙の返事などでした。
われわれの半生の努力ははたして有益だっただろうかという疑念にとらわれることがある。この疑念をもらすと金さんは『社会主義や共産主義の宣伝をしているわけではなく、日ロ友好を訴える放送だった』答えた。まったく同感である
言葉にできない戸惑い
モスクワ放送から名前を変え、インターネット放送になっていた「ラジオ・スプートニク」の日本語放送が2017年5月に終了した後、一時帰国していた日向寺さんは、両親の介護のため、モスクワに戻らずに日本で暮らしていました。
2022年2月下旬、久しぶりにモスクワに向かうことにしました。予約したのは、羽田発2月25日の日本航空の便です。しかし、前日にロシアがウクライナに侵攻し、飛ばなくなりました。翌26日の便は出ることになり、モスクワに向かうのは朝日新聞記者くらいなものでした。
本来なら3月8日の「国際女性デー」を前に明るい飾りつけが始まっているのですが、そういった華やかさはありませんでした。ウクライナへの「特別軍事作戦」が全てを変えてしまったのです。
顔を合わせた友人、同僚らは灰色の気持ちを示しています。親類や友人がウクライナに入る人や、知り合いが兵士として戦っている人がいて、神妙な面持ちをしていたのです。