※読んだ本の一部を紹介します。
※そのままの文章ではありませんが、試し読みする感覚でお楽しみください。
はじめに
現代では「自由」という言葉は「新自由主義」のような仕方でしか使われなくなっています。この経済体制が強いる過酷な自己責任論は多くの人に生きづらさを感じさせているのです。
「自由」の全く新しい概念を教えてくれるスピノザの哲学は、そうした社会をとらえ直すきっかけになります。
目次
書籍情報
タイトル
はじめてのスピノザ
自由へのエチカ
著者
國分功一郎
東京大学院総合文化研究科・教養学部准教授。専門は、哲学・現代思想。
『暇と退屈の理論学』などのロングセラーも著書しています。
出版
講談社現代新書
「力」こそ本質とする転換
スピノザは、各個体がもっている力に注目しました。物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。
私たちのものの見方も、様々な判断で大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。実に抽象的です。
このような本質の捉え方は、前章で見た活動能力の概念に結びついています。「この人は体は強くないけれども、人の話を聞くのが上手で言葉に表現することに長けている」など、その人の力の性質が決定的に重要です。
1人1人の能力を具体的にみることで、組み合わせを考えることができます。私たちの生き方そのものと関わってくる、ものの見方の転換なのです。
自由とは自分が原因になること
スピノザの自由の概念は、どこかで原因という概念と結びついています。不自由な状態、強制された状態とは、外部の原因に支配されていることです。
ならば、自由であるとは、自分が原因になることではないでしょうか。
第三部定義二
我々が自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言い換えれば…
我々の本性のみによって明瞭判然と理解されるようなある事が我々の本性から我々の内にあるいは我々の外に起こる時、私は我々が動きをなすと言う。
自由であるとは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。
どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作りだせるのかが、自由であるために一番大切なことのようです。
物を認識することで自分を知る
第二部定理四三備考
前もって物を認識していないなら自分がその者を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。
「いま、自分はこの物について確実な認識を有している。確実な認識とはこのような認識のことだ」スピノザはこのように言っています。
自分が確実さをどのように感じるかを知るということでもあるのです。
自らの認識する力をたしかめることになります。私たちは自分たちのことをよりよく知ると言ってもよいでしょう。
自身を問い直す
哲学の本を読み込むことは、単に、昔の哲学者が考えたことを知るだけに留まりません。
いまものを考えようとしている私たち自身を問い直してくれるものでもあります。
過去の思想の対話が、私たち自身のことを教えてくれるのです。
スピノザやデカルトは私たちにとって最高の対話相手になります。
感想
サイト管理人
物事を考えたことを考えるといった。広げて戻ってこない、深く考えて結論はもちろんないといった。頭がおかしくなりそうな哲学の世界で、思考を巡らせることは自分の対話になります。たぶん、そういうことなのでしょう。
哲学の書籍も読まなくはありませんが、何度読んでも分からないものです。それが哲学なのでしょう。
答えの無い問いを考えまくった哲学者の本に触れ、常識と思っているものを考え直す、何かのヒントにはなるかもしれません。
哲学は頭を使うという部分では、かなり優秀な学問だと思うで、自分で物事を考えるヒントが欲しいかたにお勧めしたいと思います。