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目次
書籍情報
1日1テーマ
30日でわかる戦国武将
発刊 2024年2月14日
ISBN 978-4-86651-684-4
総ページ数 135p
山田勝
大手予備校講師。地歴公民担当。
文響社
- はじめに
- 本書の読み方
- 本書を読む前に
- 戦国時代の全国地図
- 戦国武将の生没一覧
- 織田信長
- 今川義元
- 斎藤道三
- 朝倉宗滴
- 浅井長政
- 明智光秀
- 柴田勝家
- 豊臣秀吉
- 前田利家
- 石田三成
- 加藤清正
- 黒田如水
- 徳川家康
- 本多忠勝
- 武田信玄
- 上杉謙信
- 直江兼続
- 三好長慶
- 伊達政宗
- 真田信繫
- 北条早雲
- 北条氏康
- 大内義隆
- 尼子晴久
- 毛利元就
- 小早川隆景
- 長宗我部元親
- 大友宗麟
- 立花宗茂
- 島津義弘
徳川家康
ポイント
●少年時代は今川家で人質生活を送る
●信玄の挑発に乗るなど若い頃は短気な一面があった
●秀吉の没後、最高権力者への野心をあらわにした
6歳のときに今川家に送られ、護送役の武将が織田家に寝返り、尾張国に連れ去られます。1560年の桶狭間の戦で今川軍の武将として参戦したが、敗北します。今川家を継いだ氏真は大名としての器量にとぼしく、元康(家康)は三河国の大名として独立しました。
家康が浜松城で籠城の準備を進めており、それまでは武田軍と戦いになっていました。けれど、浜松城を無視して進軍を続けるという信玄の挑発にのり、家康は進軍して滅多打ちにされます。しかし、運よく4か月後に信玄が病疫するなどして、織田・徳川連合軍が勝利を収めました。
領地石高100万石を超える大大名になった家康は、羽柴秀吉とも戦火を交えています。秀吉が再戦を避けるために、妹を嫁がせて、実の母を人質に差し出すほどの戦力を持っていました。秀吉の懐柔策に折れた家康は上洛し、秀吉への忠誠を誓っています。
秀吉は武蔵国を中心とする関東への領地替えを提案されます。家康はこの提案を受け入れて江戸に拠点を移しました。
秀吉の死後は天下取りへの野望をあらわにし、戦のたびに上手くいかないことがあれば、親指の爪を噛んでいたようです。
天下の分け目に勝利して、1603年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。
伊達政宗
ポイント
●母に毒を盛られ、弟を殺害する
●市に装束のパフォーマンスで窮地を脱する
●徳川家の問題児を婿とし、幕府に警戒される
幼少期にかかった病気が原因で右を失明し、「独眼竜」という異名を授かります。この失明があっていらい、義姫は政宗を遠ざけるようになりました。そんなこんなで、引っ込み思案な性格になったけれど、片倉小十郎(景綱)の導きにより、文武両道の武将へと成長します。
政宗は18歳で伊達家当主となり、もりもりと広大な領地を手にして名声を上げたのです。そのことが気に入らない母は、政宗に毒を盛ります。命を取り戻した政宗は、義姫が溺愛していた小次郎を首謀者として斬ったのです。
そんな一連のできごとがあり、秀吉の参陣に遅れて、秀吉の奥州仕置という処罰を受けています。(領地を半分以下に減らされた)
政宗が最後まで領地の拡大に執念を燃やし、徳川家康や江戸幕府から最も警戒されていた大名であることは間違えありません。
政宗は、混乱に乗じて岩崎一揆を起こされています。バレずに領地を増やそうとしたのです。家康に知られてしまって、手にするはずだった領地も得られていません。
仙台藩を成立させて、富ませるための政策に、通商目的の使節団をスペインに派遣するが、幕府の鎖国政策に邪魔をされて、1回限りの派遣で終わっています。
直江兼続
ポイント
●全国を統一する前の秀吉に接近する
●「直江状」で家康を激怒させる
●領地石高を30万石から50万石に高める
信長の死後に織田家の実権を握った羽柴秀吉と、以前から良好な関係を築いていました。1598年には秀吉から領地替えの命令が下り、会津に移って約120万石の大大名となっています。このとき兼続は30万石の米沢を領地にもらいました。米沢への移動は、家康の監視もかねています。
家康に神経を逆なでするような「直江状」を送り、それに激怒した家康は全国諸大名に上杉討伐の号令をかけました。挟みうちにして家康を討つ策でしたが、戦いが長く続いたため全軍を退去させなければならなくなったのです。そのときにむずから殿になることで上杉軍は無償で米沢への帰還を果たしています。この采配は最上家からも絶賛されました。
景勝は家来を解雇しなかったため、米沢藩は慢性的な財政不安に陥りました。兼続は新田開発を推し進め、それにともなう治水事業も精力的に行っています。
最上川の川岸に築かれた総延長10kmに及ぶ堤防は「直江石堤」と呼ばれ、このような治水により実質的な石高は約50万石まで上昇したとみられています。
兼続は学問にも熱心であり、中国の詩文集を最新の印刷技術を用いてみずから出版したほか、晩年には禅林文庫という学問所を米沢に創設しました。